2014-03-22

映画「父のこころ」



 知り合いが映像作品に出演する、という体験をほとんど持たないわたしにとって、その映像を観るという行為は、どことなく気恥ずかしさがある。「いつもと違う彼」に違和感を持つからなのだろうか …… わからない。そのことを覚悟して映画「父のこころ」を観にいった。そして、上映数分前まで主演男優と話した。主演男優はわたしにおまんじゅうをすすめてくれ、ジャケットの袖に付いたペンキに悩まされていた。そんな彼がいきなり巨大なスクリーンに現れる。差異は承知している。
 ところが、映像はわたしのなかに自然と溶け込んでいいく。学校が映し出されたシーンでは、これが「風のがっこう」か? とひとり呟く。奥村賢一役の大塚まさじは、わたしが知っているうたう「大塚まさじ」。違うのは設定だけ。スクリーンのなかではギターの代わりに骨壺を持っていた。
 どうして大塚まさじの演技はこれほどまでに自然なのだろうか?
 クランクイン前、大塚まさじは俳優で、彼の友人でもある綾田俊樹に演技の相談をしたところ「素人なんだから演技はしないこと」と忠告されたという。
 だから自然なのか?  それほど安易に実行できるものなのだろうか?
 演劇や演技について明るくないわたしがこのようなことをいうのもおかしな話だが、映画「父のこころ」でもっとも驚いたのはそのことなのだ。

 大塚まさじをはじめてスクリーンで観たのは映画「肉色の海」(1978年作品 監督:井筒和幸)だった。そのことを思い出してみよう試みたが、どうしても思い出せない。思い出そうとすると彼自身のアルバム『風が吹いていた』のカヴァー写真が浮かぶ。たしか町のチンピラ役だったが …… そういえば、あの写真と同じ黒い革ジャンを着ていたような気がする。映画「父のこころ」では三つ釦のジャケットを大塚まさじは着ている。(本来は違うらしいが)少しカジュアルな印象があった。個人的には二つ釦のほうがフォーマルで古めかしいと思っていて、わたしが想像する「奥村賢一」という人物は二つ釦のジャケットを着ている。わたしは大塚まさじの背広姿をしらない。それだけに三つ釦というカジュアルさが普段の「大塚まさじ」を思い出させてくれたのかもしれない。
 1970年前後、芝居の幕間でうたいはじめたシンガーたちとそうではないシンガーに違いを感じたことがある。「違い」という具体的なものではない。「匂い」というほうが正確かもしれない。それは、及川恒平が喫茶ディランに大塚まさじを訪ねてきたことがあるという話を聞いたことがあるときだった。わたしのなかで「奥村賢一」以上にふたりは重なり合った。及川恒平だけではなく、友部正人や下田逸郎らとも同じ「匂い」がする。それまでにあった既存の世界ではなく、新しいなにかを切り開こうとしてきた世代の「匂い」なのだろうか? それは、もしかすると「存在」といい替えられるもののような気がする。「存在」はどのような環境によって変化し、変化しない。だからスクリーンのなかにも溶け込んでいく。
 変わっていくなんて / きっとない……のか?




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